幕末の志士清河八郎(1830~1834年)には、“お蓮”(本名:菅原高代)という妻がいた。
1855年(安政2年)4月15日、25歳の八郎は母亀代(40歳)を伴い、半年間に及ぶ諸国漫遊の旅をして、実家のある清川村(現山形県庄内町清川)に帰ったのは10月20日のことだった。江戸からは友人の安積五郎も同行する。実家に戻った八郎は、安積五郎を誘い鶴ヶ岡八間町の妓楼うなぎ屋で遊び1泊、翌日うなぎ屋から呼んだ女たちを湯田川温泉で唄わせ、酒を呑ませ、自分たちも浴びるほど呑んだ。安積は元禄の昔、吉原で金銀をまいて女たちに拾わせたという、紀ノ国屋(文左衛門)のことを思い出し、節分の豆まきを真似して、金をばらまいた。
女たちは嬌声をあげて座敷を這い、落ちた金を奪い合った。そのとき、ふと一人の女に目を奪われる。一人だけ部屋の隅に座って、騒ぎには加わらず、ひっそりと座敷の混乱を見ていた。その夜、八郎はうなぎ屋に戻ると、高代というその女を呼んだ。「何もしなくてもよい。一緒にいてくれれば良いと・・・」その後、あの清らかな高代を忘れることが出来なかった八郎は、素封家の長男に遊女を嫁にとるわけにはいかないという猛反対を押し切って一年後に身請けをすることになる。「蓮は花の君子なる者なり」と続く宋代の儒者:周廉渓「愛蓮の説」の一節、「泥中から出て、清く香る蓮」こそ、高代の名にふさわしいと“お蓮”と名前を変えた。−西遊草より抜粋−
祝言をあげることは出来なかったものの1856年(安政3年)仙台で所帯を持ち、江戸に戻ると二度目となる清河塾を淡路坂に開塾、北辰一刀流千葉周作道場で生涯の朋となる山岡鉄太郎(後の山岡鉄舟)と出会う。しかし、それもつかの間、江戸の大火で塾は焼失、三度目となる塾を神田お玉が池に開塾するが、江戸の政情は不安定なり、ついに1860年(万延元年)井伊大老が暗殺される。それに衝撃を受けた八郎は山岡鉄舟、高橋泥州らと“虎尾の会”を結成、尊王攘夷へと突き進む。翌年、町人切りの汚名を着せられ逃亡を図るも、逃亡の手助けをしたとしてお蓮や弟・同志が捕縛され入牢、1862年(文久2年)お蓮は八郎に遭えぬまま獄死する。
八郎との生活はたったの6年に過ぎなかった。
お蓮さん(旧姓高代)の生家には樹齢300年を超える梅の古木が現存する。
2015年6月、私は鶴岡市熊出(くまいで)にあるお蓮さんの生家を訪問して、末裔となる菅原氏にこれまでの事情を説明、梅の古木を見せて頂いた。
職業意識から梅の古木からの実生木(苗木)がないものかお尋ねしたところ、1mを超す実生木3本を育てているという。
2016年、お蓮と所帯を持ってからちょうど節目の160年を迎えた。この機会に八郎夫婦を清川の皆さんと共に祝ってあげたいと思い、10月、菅原氏に梅の苗木を分けて頂けないかと相談したところ、快く引き受けて頂くことが出来た。
そして2017年5月30日(火)「清河八郎例大祭」に合わせ、「お蓮さんの梅記念植樹祭」を開催することが出来た。
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